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KAGA ELECTRONICS STORY

創業者が語るストーリー
創業時の想い、加賀電子が加賀電子たる由縁。

01

ガラス張り経営。
それが、創業の原点。

生まれは、金沢です。勤勉な父としつけの厳しい母に育てられ、中学まではまじめに勉強して、高校は地元の就職に強い工業高校に進学しました。しかし、実はたった1年で中退しています。当時、私のまわりでは中卒で働く人が多く、自力で給料を稼いでいる姿を見てうらやましく思ったからです。そこで、高校をやめて上京。東京で働いていた叔父に頼んで紹介してもらったのが、可変抵抗器メーカーでした。この会社では、2年ほど組み立て作業を経験したあと、営業を経験させてもらいました。

秋葉原にある電子部品商社や、ステレオなどをつくっているセットメーカーに自社商品を売り込むのが主な仕事でしたが、私の性格には営業の仕事が合っていたようです。お客さんとお酒を飲んだり、麻雀をしたり、釣りに行ったりして遊んでいるうちに、お客さんと仲良くなることができました。問屋さんの知り合いも増えまして、自分たちが扱っている可変抵抗器だけではモノづくりができないということを知りました。そんな風にして過ごしているうちに、何千点もあるという電子部品に興味を持ち、それらすべてを取り扱う仕事ができたらおもしろそうだ、と考えるようになりました。

結局、それがきっかけとなって、退社。セールス仲間で独立した方のところへ転職したのですが・・・。わずか半年で辞めてしまいました。というのも、経営状態を一切教えてくれない秘密主義だったからです。たとえば家賃がいくらで、給料がいくらで、経費がいくら、ということがすべて秘密。公明正大ではありませんでした。

会社はみんなのものだから、数字も全部オープンにすべき。努力した結果、儲かればみんなで山分けする。多少、苦労したときには、みんなにも多少がまんしてもらう。これが本当の経営じゃないか、と思うようになりました。だから、それを実現するために秋葉原で独立した、というのが創業の原点です。ちなみに社名は、創業資金を両親にお願いし、なんとか工面してもらった際に相談したところ、「加賀百万石のように大きくなればよいね」という母からの提案を受け命名することにしました。

02

世のため、人のため、
そして社員のために。

創業当時、電子部品商社といわれる会社が大小1000社近くありました。それが今はせいぜい200社くらいになりました。ではなぜ私たちが生き残ってこれたかというと、ガラス張り経営にして、社員みんなが経営者意識をもってやってこれたからだと思います。

いなくなった会社のトップを見ていると、ほとんどが個人経営でトップだけがいい思いをしている。自分はいい思いをしているけれど、社員には厳しいことを言って利益を還元しない。当時は私よりもよっぽどいい生活をしていた人も多かったのですが、そのあたりの差がでたのかもしれません。やはり、お客様のため、従業員のためという精神がないと企業は長続きしません。世のため、人のためという考えがないとダメだと思っています。

もっとも、創業したときは、そんな大層なことを考えていたわけではありませんでした。ところが、会社をはじめてみると、徐々に資金と賛同してくれる人が増えてきて、うちのような小さな会社にも人生を託してくれる仲間が増えたわけです。そうなると責任感が出てきて、どうやって彼らを一人前にするか、幸せをつかませてあげられるかと考えるようになりました。そのためには、まず会社の成績を上げなければならない。でも、何事もひとりでは限界があるから、みんなで一緒になって努力しようよ、となる。その結果が今の姿なのです。ですから、これからも、常に社員に背中を見られているという意識をもって、努力していきたいと思います。

03

人脈は無形の財産。
在庫は罪の子。

会社設立にあたって、電話や机、名刺など、仕事に必要なものをそろえていくと、虎の子の開業資金はあっという間になくなりました。しかし、幸いにも私には財産がありました。それは営業時代に培った「人脈」という無形の財産です。まずは「加賀電子株式会社 代表取締役」という名刺をつくって、これまでお付き合いのあった方々にごあいさつをさせていただきました。「部品ひとつからでもかまいません。夜中でも走り回って、必ずお届けしますから」というと、「そうか、わかった」といって二つ返事で注文を出してくれる方がたくさんいました。頼まれれば何でも取り扱うという便利屋のような仕事でしたが、仕事があるというのは、本当にありがたい。人の縁の大切さが身にしみました。

もうひとつ。お金がないという事実は、思わぬ副産物をもたらしました。それが現在、加賀電子を支えている受発注システムです。お金がないと余分なものは仕入れられないし、在庫も持てません。つまり、先に注文をもらい、その分を発注するというやり方しか方法が無かったのです。これが在庫を持たないフローの経営、受・発注の原則となり、在庫は罪の子(ざいこはつみのこ)という言葉も生まれました。在庫を持てば、資金が寝てしまったり、借金をする必要が出てその分の金利がかかる。保管スペースや保険代を含めて、余分な費用がかかるという意味でも何も良いことがないので、罪の子と呼んでいます。これは加賀電子に脈々と流れるDNAになっています。

04

時代の波をつかむのは、
「聞く力」です。

時代の波をつかめたこと。それは、加賀電子にとって重要な成長要因のひとつです。その最初のチャンスが、CBトランシーバーという無線機ブームでした。ちょうど、第一次オイルショックのときです。円高とそれによる物価の高騰で、トイレットペーパーまでなくなるような時期でした。

そのときアメリカで何が起きていたか、というと、トラック運転手の間で大量の無線機が必要になっていました。つまり、ガソリンが調達しにくいため、どこのガソリンスタンドで買ったらいいかということを、運転手同士が交信する必要があったようです。

この無線機の生産委託を日本のメーカーが受けることになるわけですが、部品はすぐに足りなくなりました。ご要望を満たすためには、世界中どこからでも探してきて、お納めしなくてはいけない。そこで友好商社に相談して、中国、ロシア、ハンガリーといった共産圏に部品を買い付けに行きました。それがベースとなって海外にたくさん会社をつくるようになりました。現在のグローバルネットワークは、あくまでもお客様のご要望にいかにお応えするか、ということから始まったわけです。

そしてその後、時代はあらたな局面を迎えます。象徴的なブームがインベーダーゲームでした。当時、日本の半導体メーカーを筆頭に、つぎつぎとICの生産がはじまりました。しかし、パソコンのようなハードはありませんから、売り先がない。ICをつくったはいいがどうしようか、というタイミングで、インベーダーゲームが開発されたのです。当然ニーズがありますから、私たちが間にはいって、お取り引きをさせていただきました。すると、あっという間にたくさんのお客様からご要望をいただくようになる。また部品が足りなくなる。アメリカに行って調達をする。やがて、これも足りなくなる。という具合で、最後は共産圏まで調達に行きました。

では、なぜこうした波に乗れるのか、というと、これは「聞く力」なんです。とにかくお客さんによく話を聞くということです。真摯な姿勢でこちらから教えを請うと、人は何でも教えてくれるものです。そうしたらお返しに、自分が知っていることを教えて差し上げる。すると今度は「こうした研究開発をしているので、活用できそうだ。必要な部品を揃えてくれないか」という話になります。

創業以来、その繰り返しです。お客さんから頼まれたり、お役に立つ情報を提供するためには、知識を高めなければいけません。そのためにアメリカの拠点を利用したり、日本のベンチャーの方々とお付き合いをして、次に何が来そうだな、という情報を仕入れていく。それをみんなでやってきた、ということなのです。

さて、インベーダーゲームのブームが去ると、家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」の時代が到来しました。ソフトの中身はマスクROMという半導体です。これを売るため、ゲームソフトを開発できる部隊を社内外に揃えて、各ビデオゲームメーカーに「黒子としてソフトの開発をお手伝いするので半導体は弊社から買ってください」というお願いをしました。これも、ものすごい勢いで売れました。しかし、CD-ROMの登場によって、ゲームソフトの売上はゼロになります。時代の変化は、ヒットを生むきっかけにもなりますが、リスクにもなる。それでも弊社が成長をつづけてこれたのは、ヒット商品と並行して、常に新しい市場を開拓していたからです。

05

社員の提案には、
Noと言わない。

現在、加賀電子には50を超えるグループ企業があります。事業領域も、電子部品・半導体関係にとどまらず、情報機器からEMS、アミューズメント、スポーツ関係まで幅広くあります。どうすれば、新しい需要をキャッチできるのか。その答えは、社員の挑戦を奨励し、失敗を許すことです。ですから、社員が提案する新規事業にはNoといわず、まずは任せてみることにしています。人は任せられると、責任をもってやるものです。人を信じることが大切で、私は「性善説」をとります。悪さをする人間は最初から採用していないつもりです。

もちろん、すべての事業がうまくいくわけではありません。けれども、失敗から学ぶことも大切じゃないですか。だから、当社には敗者復活制度があります。たとえば分社化に失敗した人は、半年間だけ給料が下がりますが、それが終わればイーブンになり、また挑戦することができる。昔、ある社員がアメリカで会社を立ち上げたいというので、挑戦させたことがあります。最初の3年は利益が出ましたが、4年目、5年目に損を出して、8000万円ほどの赤字を出しました。結果、その会社を売却して撤退することになるのですが・・・。その社員は、長期間アメリカに滞在したことで、現地の方々と不自由なく話せるようになっていました。そしてその後は技術統括の責任者として、新しい技術の動向をいち早く把握するなど活躍しました。たとえ1億円の損があったとしても、成長した社員が会社に残って活躍してくれることが、弊社にとっては貴重な財産になります。

実際、失敗を糧にして、グループ会社の経営者に成長した社員もたくさんいます。いまや売上高70億円をこえる加賀スポーツも、ひとりの社員が手を挙げたことからはじまりました。もしも失敗した人を出世できないような体制にしていたら、今の加賀電子グループはなかったでしょう。優秀な人ばかりではないですし、私だって失敗していますから、そんなことでクビにしていたら、社員が全員いなくなってしまいます。

06

働きやすい環境をつくる。

1997年に、東京証券取引所市場第一部に上場しました。公開した理由というのは、実は社員のためです。何かを提案して会社をつくりたい、商品をつくりたいと思ったとき、当然、資金が必要になります。だから、資金を調達しやすい環境をつくるということが最大の目的でした。ですので、創業者の私も株は数%しか持っていません。創業者をやっていると、半分近く保有するのが普通だと思います。しかし、私は「会社は経営者のものではない、みんなが働き、稼ぎにくる場所だ」と思っています。

企業は人なりと言いますし、企業は永遠でなければいけません。一方で、人は有限ですよね。会社が永遠に残るためには、やっぱり人に育ってもらわないといけない。そうすると、そういう環境をどうやってつくるかが大事になる。だから基本的にはNoと言わないでみんなの背中を押してきました。その結果、現在のように、多面的に事業が増えてきて、子会社もたくさん増えてきた。50社あるということは、50人社長がいるわけです。その会社には専務もいれば、常務もいて、部長や課長もいる。ポストがたくさんできるじゃないですか。それは、社員にとってプラスになると思っています。みんな一生懸命努力しているのですから、より多くの人が、いいポストに付ける会社のほうがいいだろうと思います。その分、お金もそれなりにかかりますし、私なんて年がら年中減俸です。なぜなら、どこかで誰かが必ず失敗しますから、連帯責任を取らされるんです(笑)

07

創業以来、なんでも屋です。

もともとは電子部品を販売する会社として、便利屋的にはじまった会社です。ですから当然、ICだけなく、他の部品も一緒に届けてもらいたいというご要望が生まれる。そしてそれがきっかけで、キットビジネスがスタートしていく。そうこうしているうちに、開発も手伝ってほしいという話がくる。今度はそれに応えるために、技術力を磨き、社内外に体制を整えるようになる。キットで納められて、開発も手伝っているなら、一部加工して届けてくれという話もやってくる。それでいつの間にか、モノづくりまでできる会社になっていく。

その後、時代の変化によって、できれば完成品までつくってくれという話になり、アジアに生産拠点を展開するようになる。中国だけではリスクがあるから、タイ、マレーシア、インドネシアへと広がっていく。さらに完成品ができあがると、実は販路を持っていないので手伝ってよ、となる。何を頼まれてもNoとは言わずにやってきた。それが、加賀電子の歴史です。

だから、これからも「すべてはお客様のために」。ご要望があれば、なんでもお取り扱いするのが使命です。そして、それこそが私たちの成功法則です。私も歳をとりましたが、社内にはたくさんの仲間がいます。若いメンバーが引き続き、この加賀イズムを守りながら、新しいビジネスに挑戦しつづけることでしょう。たぶん、まだまだ先まで行けると思います。私自身、とても楽しみにしています。

代表取締役会長  塚本 勲

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